Chiharu の日記

絵描き C/C++ プログラマーの日記です。

STEINS;GATE 〜熱すぎます

アニメが熱すぎて、悩んだ挙句 8 月上旬に PC 版を買って即クリア。自分の中では、この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO に次ぐ時空系 ADV だと思ってます。
―――ネタばれ注意!
この世の果てで恋を唄う少女は、究極の客観に基づく多世界解釈から時空のあり方に迫ったように記憶しています。光だけでなく可能性すら逃げることのできない『運命』へと続く時空範囲をシュヴァルツシルト半径と表現してみたり、タイム トラベルという行為を含めたタイム パラドックスの起きえない多世界のあり方を『歴史』と表現してみたり。まぁ、ファンタジーなんですが、着眼点がとにかく新しいと感じたものです。高校 3 年生の頃に制服姿でゲーム ショップに買いに行って店員に追い返された*1のはいい思い出です。
これに対してシュタインズ ゲートは、自分にはその対極に感じられる究極の主観に基づく多世界解釈(劇中では多世界解釈ではないと表現されています)から時空のあり方に迫ったものと感じています。多世界なんですが、世界線というレールをユーザに意識させることで、客観に至ることのないように配慮されていたように感じます。シュタインズ ゲートにおいては『精神のありか』が解決されないと、多世界が客観で観測されるべきものなのか主観で観測されるべきものなのか分からないままです。劇中では『主観で観測することの正しさ』みたいなものは主張されるものの、その根拠については特に提示されていないように感じます。
―――シュタインズ ゲートでは、なぜそこまでして主観にこだわったのか。
上記、『こだわった』という表現を含めて私の想像ですけれど。多分『救われないキャラクター』というのを出したくなかったのではないかと感じています。作者自身のエゴでなく、ユーザ サービスとして。
この世の果てで恋を唄う少女では、客観で迫りますので『あるルートでは救われるキャラクターが、別のルートでは救われず、しかもそれらのルートは歴史として厳然と同時に存在する』という状況を許容しています。
シュタインズ ゲートではこれを許容しておらず、主観である主人公の選択によって観測される世界線が『最終的に選択されたルート』であって、他の世界線については『可能性であって世界線における人物の主観の存在についてはあいまいなまま』となっています。このことにより主人公に観測された最後の世界線において全てのキャラクターが救われていれば、ハッピーエンドということになります。
上記の相違からか、この世の果てで恋を唄う少女からは客観から来る『厳しさ』みたいなものを感じたものですが、シュタインズ ゲートからは主観から来る『熱さ』を強く感じました。
取りとめもない感じで書き綴りましたが、私にとってこの 2 作品は記憶に残る時空系 ADV として双璧をなすものになったようです。
―――んー。シュタインズ ゲート。いいわぁ。
いずれふらっと BD 全巻買ってしまいそうです。(相方に生暖かい目で刺されそうです

*1:この世の果てで恋を唄う少女は 18 禁ゲームでした。